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北海道/函館.大沼公園 2021年11月23日〜25日
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『金時山』は日本三百名山のひとつ。神奈川県箱根町と静岡県小山町の県境に位置し標高1212b. 山頂標識は"金太郎のまさかり" 山頂から見る富士山は雄大。
2021年11月23日 バスタ新宿から小田急バスに乗って『金時山・登山』に出発。  

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2021年11月23日
新宿バスタ
仙石文化センター
仙石原マントビューホテル


2021年11月23
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2021年11月25



新宿バスタ‐/御殿場・箱根線 特急17便 バスタ新宿(11:05発)-仙石文化センター前(13:12着)予定
午前10:30分、B4乗場前待合室、バスは苦手"酔い止め"を飲んで待つ。



小田急バス御殿場・箱根線 特急17便

発車10分前乗車口でカード読取機にモバイルチケット.タッチして乗車、揺れの少ない最前列を予約した。


時間通り出発したが、東名高速道路大和トンネル付近で事故発生、20`もの渋滞案内。


予定より2時間も遅れて御殿場駅へ。バスの正面、JR御殿場駅 越しに富士山の雄大な姿が見える。
アウトレット最寄りバス停なので多数の乗降客。


御殿場バス停

やっと仙石文化センター前に到着。今日宿泊するホテル「マウントビュー箱根」はバスを降りると目の前。予定では13時について、仙石原を散策する予定だったが、そのままチェックイン。

ホテル「マウントビュー箱根」

仙石原散策は明日以降にして、今日は 宿でお風呂三昧で過ごすことにする。


「マウントビュー箱根」319号室

12畳の部屋から箱根の山がきれい。箱根は寒いらしく暖房がすでに入っていた。

「マウントビュー箱根」お風呂 ホテルHPより転載

竹林を眺めながら入る濁り湯の露天風呂はなかなかいいお湯だった。


夕食は一階の大広間でいただく。食事時間は宿泊者別に3つに分けられ、密にならない工夫がされていた。


割安料金の宿なのに、料理は温かく出来立てが並べられ、とても美味しかった 。


お風呂は一階ロビーから階段を下りていき、食事会場は同じフロア、一階の奥に喫煙室と休憩室。


  11月24日 『金時山』登山
2021年11月24日
仙石原マントビューホテル
金時(公時)神社
金時山.山頂
箱根湿生花園
仙石原ススキ草原
箱根仙石原プリンスホテル





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今日は金時山登山
朝食は昨夜と同じ場所で食べ、9:30チェックアウト。フロントで金時神社登山口と下山してから湿生花園や仙石原プリンスホテルの場所を地図で教えてもらい出発。


金時山の登山口「金時神社」はホテルから15分程ゆるやかな坂道を登る。


山に入る前、金時神社をお参りする。


公時神社(金時神社)参道
公時神社
箱根霊山のひとつ金時山東麓に鎮座するお社であり、金太郎伝説で有名な坂田公時命がお祀りされています。御祭神の坂田公時命は、平安時代中期、源頼光の四天王の一人として活躍し、酒呑童子退治にも同行したと伝えらえる勇猛な武将であります。その武勇は「今昔物語集」や「古今著聞集」によく記されていますが、一般には、幼名の「金太郎」で知られ、童形で鉞を持ち、金の字の腹がけ姿で熊に跨る金太郎は、昔話や童謡などで広く親しまれています。神社周辺には、金太郎ゆかりの奇岩が多く、山中には金太郎が手鞠にしたという「手鞠石」や蹴落としたという「蹴落とし岩」、また金太郎が住んでいたという「宿り石」など様々な伝承と共に残されています。 特に、社殿の裏山に残る「奥宮」と呼ばれる岩上の小さな祠は、公時神社の元宮であり、古くは、この社前でお祭りが行われていました。 ....公時神社HPより転載...

金太郎が使ったというマサカリを奉納した.ほこら「祠箱根」


金太郎にはいくつも伝説が存在する。静岡県駿東郡小山町の金時神社の金太郎伝説は以下のとおりである。
金太郎は天暦10年(956年)5月に誕生した。彫物師十兵衛の娘、八重桐が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれ懐妊した子供であった。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。 成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。
天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となった。名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となった(四天王には他に渡辺綱、卜部季武、碓井貞光がいる)
当時は丹波の国の大江山(京都府福知山市)に住む酒呑童子が都に訪れては悪いことをしていた。 永祚2年3月26日(990年4月28日)源頼光と四天王たちは山伏に身をかえて大江山に行き、 神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って酒呑童子を退治した。
坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため筑紫(現在福岡県)へ向かう途中、作州路美作勝田壮(岡山県勝央町)で重い熱病にかかり享年55で死去した。勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅神社を建てて葬った。その神社は現在、栗柄神社と称する。
公時神社本堂の奉納人形

神社を お参りして参道から金時登山道に入る。標高1212b.山頂を目指して登山開始。





2021年11月23
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金時神社登山口⇒金時神社分岐⇒金時山⇒矢倉沢峠⇒金時登山口

ゆるい傾斜の快適な山道がつづく。


金太郎が住んでいたという伝説の「宿り石」

木々の間から仙石原が見渡せる登山道はこの辺りから急傾斜のきつい登りになる。


山頂に今一息の金時神社分岐に到着。


金時神社分岐

登山開始から一時間、公家神社分岐で休憩。ここから山頂までは急な登りだったがやっと山頂に到達。

金時山.山頂は天気は快晴だが強い風が吹き寒い。帽子はしっかり押さえていないと飛ばされそう。
正面に富士山、左に芦ノ湖 

風は強いが空気が澄んでいて素晴らしい眺望を充分満喫。
山頂トイレ(\100)を借り、下山は「公時神社分岐」を別ルートで矢倉沢峠から仙石原方面に下る。





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金時神社登山口⇒金時神社分岐⇒金時山⇒矢倉沢峠⇒金時登山口
Mが左ひざ痛を訴えはじめる。
73歳の女性にはこの程度の標高の山でも相当ハードでやむを得ないが、下まで下りられるか心配。


少し下っては休み、またゆっくり下っては休み、だましだましゆっくり下る。仙石原へあと40分。

仙石原へはまだ30分

やっと登山道最後の下りにさしかかる。


登山道下り終えると平地の一般道に入る、


Mは少し足が進むみたいだが、ホテルまであと4`程。大丈夫かと聞くと平地の道路なら大丈夫というのでゆっくり歩くことにする。

金時山登山道入口

登り始めた金時神社入口より数百b仙石原に下った所にでる。


昨夜泊ったマウントビュー箱根ホテルの直ぐ近くを通り、箱根湿生花園わきから「仙石原・ススキ草原」方面に進む。Mのひざは相当痛いらしくやっと一歩一歩づつ前に進む。


ホテルまであと600bの看板手前の小さな公園でMをやすませ、明日これるかわからないので「ススキ草原」を一人で見学してくる。



2021年11月23
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台ヶ岳の斜面がススキで覆いつくされ壮観。ススキの原をかき分けるようtに一本道が続き両側をススキが囲む幻想的な光景

「仙石原・ススキ草原」

ススキ草原から戻り、足を引きずるように歩くMを励ましながら、ホテルへ向かう。


「箱根仙石原プリンスホテル」の看板。あと少し。


今朝9時半に出発し金時山を登って「箱根仙石原プリンスホテル」に午後2時やっと到着。


「箱根仙石原プリンスホテル」チェックイン。378号室。


幸いロビー階が3階なので部屋まで同じフロアを進んでいく。


部屋はゴルフ場隣接のホテルらしく目の前にコースがひろがっている。

「箱根仙石原プリンスホテル」378号室

早速着替えお風呂へと、だが足を痛めた
Mは浴衣に着替えるのもたいへんそう、温泉が何よりの特効薬になるのではと期待をこめてお風呂へ。

「仙石原プリンスホテル」露天風呂と内風呂 ホテルHPより転載

仙石原プリンスホテルは天然姥子温泉。M
お風呂は2階で、エレベーターで降り通路すすみ右が女、左が男。内風呂と露天風呂がある。

「仙石原プリンスホテル/姥子温泉」
金太郎は、足柄山に住む山姥が夢の中で赤竜に通じて生んだ子供いわれ、箱根山中には、山姥と金太郎に関わる伝説・伝承がいくつか伝えられ、姥子温泉には、目の傷をした金太郎のため山姥が、箱根権現のお告げで、この霊泉を探しあて湧き出る湯で金太郎の目を治したという伝承が残っています。 ....公時神社HPより転載...





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温泉好きなMには温泉は特効薬らしく、長風呂のあとだいぶ足痛が改善していた。
夕食は17:30〜予約したロビー棟 3Fレストラン「グリル」和食のコース

夕食・和食コース

夕食のテーブルは全部暗い窓に向かっている。箱根の山中の夜の景色は見えないで、大きな窓ガラスは鏡のようになっていて工夫が足りない。


夕食後部屋にもどりもう一度お風呂へ。

 11月25日 小田原へ
2021年11月25日
仙石原マントビューホテル
小田原駅
小田原城
小田原駅






2021年11月23
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25日朝 部屋の前の「仙石原プリンスホテルゴルフコース」
なんども温泉に浸かってMのひざ痛はだいぶ回復してきた。


朝食は夜と同じ、ロビー棟 3Fレストラン「グリル」。昨夜はこのむきで、窓が鏡になってしまっていたが、朝は窓から箱根外輪山の眺望がホテルの自慢。


仙石原プリンスホテル朝食、Mは洋食、Kは和食を選択。
ゴルフ場併設レストランだけあって、ゴルフ場のレストランは例外なく美味しいく、ここの朝食も最高に美味しかった。



レストランの窓外の箱根外輪山の右端、昨日登った金時山がそびえている。
それほど厳しく高い山でないが老齢夫婦にしては踏破でき誇らしく眺められた。


宿泊プランに館内利用券3000円がついていたので「スーベニアショップ」に寄り土産を買う。


11時チェックアウト。玄関まえから11時半発の小田原駅行きホテルの送迎バスに乗る。


昨日Mひざ痛で苦しんだ「仙石原ススキ草原」わきを通る。


小田原駅東口に12時半到着。小田原城とすぐ先の「御幸の浜」を見学して帰ることに。小田原城⇒
伊豆半島や三浦・房総半島も見渡せる海岸「御幸の浜」は明治6年、明治天皇・皇后が行幸の際、地引網をご覧になって「御幸の浜」と呼ばれるようになった海岸。


小田原城と海岸を散策する予定だったが、小田原城の下まで歩くといくぶん回復していたMのひざ痛が再発、海まで城から10分くらいなのだが無理は出来ないのでここでUターンして小田原駅に戻る。




2021年11月23
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小田原城は下から眺めて帰る  小田原城⇒



 
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小田原駅発13:04分JR湘南新宿ライン特別快速・高崎行に乗って帰路につく。

北海道/函館.大沼公園

終

小田原城の歴史
小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。    ....小田原市HPより転載....     
   北条五代
伊勢宗瑞(後の北条早雲) 二代/北条氏綱 三代/北条氏康 四代/北条氏政 五代/北条氏直
伊勢宗瑞(後の初代早雲)は備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身です。伊勢宗瑞と名乗り幕府に出仕していました。長享元年(1487)以降は駿河の大名今川氏に仕え明応2年(1493)に将軍足利義政の甥の茶々丸を堀越御所から追い伊豆へ進出します。伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495)に相模小田原へ進出し、その後相模一国を平定します。 二代氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られています。早雲没後本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物です。また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立しました。 三代氏康は氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えたことで知られています。天文15年(1546)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大しました。 四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560)に家督を継承しています。永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めを退けています。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により切腹しています。 五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承しています。天正10年(1582)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなる、上野、下野方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし、小田原合戦の敗北の後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなっています。こうして、約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配は終わりを告げます。
....小田原市HPより転載....     
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